昭和42年05月09日 朝の御理解



 「自分がおかげ受けた事を、人に実意丁寧に伝えて行くのが神えのお礼だと、それが神になるのぞ。」自分がおかげ受けた事を人、に実意丁寧に伝えて行くのが神えのお礼だと、しかもそれが、それが神になるのぞ、とお道の信心は、自分がおかげを受けた、また受けつつあるという事を人に伝えるという事、伝えなければおれないと言う所まで、信心を高めなければならない。
 自分だけが悦になっておる、自分だけがおかげ受けておる、こういう信心では駄目、そこで折角信心の有難いという事を、おかげを受けておる事を、信心のなかった時分から、信心を頂いておる現在の私というものが、どのくらい有難いものを、幸せなものを感じておるかという事を、人に伝えていくという事、それは相手の人が判ろうが判るまいが。こちらが真心を持って伝えて行くと云う事は、判らせる為ではないね。
 ただ神様えのお礼にそう云わなければ、おられないのです。例えて別にあれがおかげ、是がおかげと感じきらないでも、お参りをさせて頂いて、御祈念をさせてもらうと、その雰囲気、またはその後に頂く、御理解の味わい、私初めてお参りさせて頂いたが、または最近こうやってお参りさせて頂いておるが。本当に金光様の御信心ちや有難いですね。あの御祈念の雰囲気が第一素晴らしいです。
 そして御理解を頂く、御理解といって神様のお話をして下さるんですけれども、そのお話もまた素晴らしい。一遍お参りしてご覧なさい、一遍お話を聞いてご覧なさいと、こう人に伝えていくという事、しかもそれが神えのお礼と仰るんですから、ね。何か特別の目を見張る様なおかげを頂かなければという事ではない。又は自分の心の中に有難いと感じる、それがおかげなんです。
 私時々茶の間でテレビを見る事があるんですが、コーヒーの宣伝をやっていますね、ネスカフェか何んかのコ-ヒ-の宣伝やっています。皆さん飲んだ事ありますか、一遍飲んでご覧なさい、兎に角美味しいですよと。第一香りが素晴らしいんですよと。味も良いんですよと言って。実際自分でコ-ヒ-を入れて、いかにも美味しそうに飲んでいる所のテレビの画面に写っている。
 あの宣伝を見ているとですねもう香りがして来る様な、おいちょっとコ-ヒ-を入れてくれと。こう云いたい様な気がするですね。すぐにコ-ヒ-を一杯飲んでみたい様な気が致します。今朝御神前でねその場面を頂くのですよ、信心を頂く様になりますとですね。先ずなんといっても信心の薫りというか、あらあの人此頃合楽に参り御座るが、金光様の信心始めなさったらちょっと変わられたと。
 すでに信心の薫りがして来たのですよ同時にです。お話させて頂く事によって信心の味わいというものを、人に伝えていけるという事、ですから先ず信心の薫りは皆さんが本気でお参りしてくれば、すぐに頂ける様になると思うんです。信心の薫りというと信心の雰囲気とでも申しましょうかね。信心を頂く様になって、教えを頂く様になってからの、物の見方、考え方。あり方というものが自ずと変わってくる。
 家庭の中にもです、そういう信心の雰囲気がかもされてくる。そういう雰囲気が出来て来る、自ずと今までは当たり前の様な思い方をしておった事の中にでも、もう一切に合掌しなければおれないとか、有り難う御座いますとか、金光様、金光様とか、というようにです。そういう家庭の中にも雰囲気が生れてくる。薫りが素晴らしい事は、信心のない者でもすぐ判る。
 私共がそう言うふうにおかげを頂いていけば、そして私がおかげを受けておる事を実意丁寧に人に伝えさせて頂くという事になればです。それはテレビで見るコ-ヒ-の宣伝の画面を見ながら、それこそ飲んでみたい様な気がする様にそんな信心なら私も一遍連れて参って下さい。と言う様な事になるのではなかろうか。もう愈々神様えのお礼なのです。それは相手が判ろうが判るまいが。
 伝えて行くと言う事が既にもうお礼なのですから。それを聞いた人達はそんな有難い神様なら一遍私も連れて参ってくれと云う事になれば、愈々お礼ですしその人が愈々助かって行く事になれば愈々神様えのお礼。成程それが神になるのぞと仰るのも成程合点が行きますね。皆さんがこうやって御理解を頂いて下さる。ですから皆さん一人一人がです例えば十人の人に伝えられる。ここに三十人の人が今集まっておるといたします。
 ならばです、十人の人に伝える事になりますと、三百人に伝える事になるのですよ。毎日皆さんの家にたずねてくる人達、又自分が出てから関係ある人達。これは私の前の信心、商売をしておりましたから、毎日お得意さんを廻って次々と拡張してまいりました。新しいお得意さんが出来ますと、ここに一人お道の信者さんが出来た。と云う様な感じでした、もう行ったら最後。
 商売の話より先ず信心の話を、一生懸命話すんです。初めの間はまた始まったという顔をしてますけどね。最後にはですね、向こうから求めて聞かれる様になりました。そして、そうして行きよる内にです、何か縋らなければおれない難儀な問題が起って来ると、一遍連れて参ってくれと言った様な事に必ずなっておったんです。例えば合楽の中村さんなら中村さん、食堂ですから次々と人がお食事に見えます。
 それに例えば、うどんならうどんを注文された人に、どうでしょうか、一言づつでもいいですから、金光様の信心の有り難さを話さなければおれない。あそこのおばちゃんばっかりは、金光様おばちゃんと、信心おばちゃんと云われる位にです、又有難おばちゃんだと、われる位にです、勿体ないが、その店一杯に広がって行く様なお店でありたいと思うんですね。成程あそこは信心する様になって、うどんが美味しくなった。
 サービスでもなんでも真心でやる、と言った様なものが、勿論出来なければ嘘ですね。今迄と味はひとつも変わらん。値段は余所より高いと言う様な事は、やっぱりいかん。そしてお得意さん、そのお客さん一人一人がです。もう金光様の御信者になられたと言う位の、ひとつの確信を持って、人に接していけれる様な、おかげを頂いて云ったら、いよいよ神えなる道が近付いて来たと言う風に思うても間違いない。
 人に話さなければ居られなくなってくる時、中村さんなんかでもそうです下駄屋さんですから。北野中村さん、下駄の鼻緒を立ててやりながらです。本当に信心の有難さもうあそこでは必ず金光様の話を聞かなならん、初めはそうでもなかっても良い話を聞いて悪い気持ちになる者はありません。人の悪口とかよそのなんにもならん世間話よりも矢張り有難い話の一つもさして貰い、聞かして貰う方がどの位有難い事か判らん。
 昨日は熊本の熊の庄教会の先生が、信者さんと車六台に分乗して団体参拝、三十五、六名の方が参って来られました。皆さんがお広前から裏の住宅の方まで見られ。それから共励殿で持参された弁当を食べられました。その後皆んなにお話をしてくれとの事で御座いましたから。私はお話をさせて頂きましたもう喜ばれる、例えば味だ香りだと云う事がです、私の様な者の信心でも此の様なおかげを受けられたんですよと。
 例えば実際におかげを、こうやって見せながらお話をするのですから、聞けますよこたえるんですよね。素晴らしいそういう内容の信心とは、どういう信心だろうかと、言う風に、それこそ心を、目を輝かしての拝聴なんですね、矢張りこの実際のものをこう見せて、お話をするという事は、素晴らしいですね、自分の信心の雰囲気を、見て貰うと云う事も大事です。けれども私が確かにおかげを頂きましたという。
 そのおかげを見せてのお話、私が三十人の人に、お話させて頂いたと云う事。いわゆる私が現在こうしておかげを受けておる事を、人に伝えていくと云う事が、神えのお礼なのだ、そして昨日の朝の御理解も、一緒にお話させて頂いたんだけれども、実際はこういう信心が出来ておるから、是を頂くんじゃなくてそれこそ、神様が蓮根食うて下さって、こういうおかげ頂いたんですよというて、この位の信心が出来れば。
 この位のおかげが受けられると云う事。たった信心は一つの信心しか出来んけれどもおかげは十も二十ものおかげを受けられる 云う事をです見たり聞いたりして貰うおかげを頂かせて貰うと云う事。自分のおかげを受けておる事を人に実意丁寧に伝えていくのが神えのお礼だと、おかげ頂かなければ話されんというて何か特別なおかげを頂く。自分の思うておる様な物を頂かなければおかげではないと思っておる人がある。
 先生おかげ頂きましたら話しましょう。お導き致しましょう、そういう事では、その人自身がおかげは何時まで経っても頂けんだろうと思うんです。お参りさせて頂いたら、すぐからでもおかげを頂けるのです、成程お参りさせて頂く、その気分というものが、なんともいえんのですよ、もうすでにおかげじゃないですか。お話を頂いて成程合点が行く様な、今迄聞いた事が叶った様な、天地の御恩徳。
 天地の道理、本当に今迄の生き方、見方が間違いだらけであったのに、気が付くだけでも、おかげじゃないですか。そういうおかげを人に伝えて行くのが、神えのお礼と仰るのですから、皆さんがこうやっておかげを受けられる、それを人に伝えて行くところの働きをです、そういう運動が展開されて来る、そこに一粒万倍のおかげが受けられるようになるのじゃないかと私は思います。
   どうぞ